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昭和40年代への誘い 〜〜〜 産業ロック製作所謹製
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投げられたハンカチとタンクローリー爆発
 今日は、白いハンカチがトレードマークの藤山愛一郎氏が、自民党の総裁公選に立候補宣言をしたニュースで、各紙持ちきりです。



新聞斜め読み




「総裁公選 藤山氏が立候補宣言 首相は辞任せよ 粛党 まず責任を明確に 清潔な公選を期待」
(毎日新聞昭和41年11月18日朝刊1面)


「自民党の藤山愛一郎氏は十七日午後四時、東京・赤坂のホテル・ニュージャパンで記者会見し、十二月一日の自民党臨時党大会で行なわれる総裁選挙に立候補することを正式に宣言した。藤山氏はその宣言の冒頭「わが党は立党以来最大の危機に立っている」と述べ、いま強く叫ばれている粛党については「総裁自らが政治不信を招いた原因についてすなおに反省し、その責任をとることが先決である」と強調し、佐藤首相自らが国民に対してその責任を明らかにするため辞任すべきであると迫った。
 ついで「自民党は新総裁のもとに挙党一致で新しい党づくりを進め、党の体質改善に全力をあげて取り組まねばならない」と述べ、立候補するに至った理由を「単なる政権欲からではなく、他に立候補者がいないとすれば党の信用は失墜すると痛感して、やむにやまれぬ心境で立候補した」と説明している。
 さらに政局担当の抱負については「国民のための政治、国民のだれもが納得する政治」を前提として(1)派閥を無視した真に信望のある人材の登用(2)政界若返りのための思い切った若手の抜てき(3)選挙公営の徹底をはじめとする金のかからない選挙の実現と政冶資金規正法の改正−−−に取り組む方針を明らかにしている。」


「投げられたハンカチ 「世論はわたしに」 藤山さん 粛党へ胸張る」
(毎日新聞昭和41年11月18日朝刊15面)


「「佐藤さん(首相)におやめになったらといっているわけです」−−藤山さん(前経済企画庁長官、愛一郎氏)はズバリいってのけた。十七日午後四時、東京赤坂のホテル・ニュージャパンで自民党総裁選立候補を正式に宣言、佐藤首相と一騎打ちの名乗りを上げたのだ。詰めかけた記者団は約百三十人。その前で「必ず世論は私を支持してくださると思います」−ことばは柔らかいが、やる気十分の構え。紺背広の胸ポケットからのぞいたハンカチは、黒っぽい色ものだったが、ご当人は気にもしていないようすだった。
 "黒い霧一掃"を唱える"話題の人"登場である。立候補の意思決定から、佐藤首相側近と感情的に対立、札幌の一日内閣は欠席、経済企画庁長官を辞任してカゼで寝込むなどの経過があって、ようやく公式の意思発表……「お待たせしました」である。
 記者会見場にあてられたホテル・ニュージャパン二階「竹の間」は、政治家の個人的記者会見としては異例の混雑ぶり。綾部健太郎(元運輸相)江崎真澄(元防衛庁長官)南条徳男(元建設相)といった藤山派の閣僚級議員、それに参院議員・中上川アキ(藤原あき)さんらも、この日は完全なわき役で、ウロウロ。
 主役の藤山さんは、カゼもすっかりよくなって、つやつやした血色。さり気ないそぶりで、終始ニコニコと、こんなときでも紳士のスタイルをくずさない。事務的な運びでサラサラと立候補宣言文を読み上げ「三度書き直し、同志諸君にさらに直してもらいました。私が考えた原文より、よほどよくなっています」とニッコリ。気持は「国民の意思のかよった正しい総裁選挙を要望する」と結んだ、この一文に尽くしたという。(中略)
 「自民党総裁を選ぶことは首相を選ぶことだ。国民はよく理解している」というのが、外柔内剛といわれるこの人の信念のようで、何度もこの点を強調していた。にぎやかな総裁公選劇へのスタート風景だったが、三十二年、財界から政界入りした藤山さんの"白いハンカチ”は、いまも白いままか、それとも洗い直しのきくものか。どちらが勝つにせよ国民の目はそこに注がれている。」


 いわゆる"黒い霧"疑惑などで、迷走中ともいえる自民党ですが、12月の総裁選に満を持して藤山愛一郎氏が立候補。事務所を構えるホテル・ニュージャパンで記者会見を開いたそうです。ちなみに、このホテルは藤山氏のグループ企業の持ち物だそうです。
 岸内閣で民間から外務大臣に抜擢され政界入り。今回で4回目の総裁戦出馬ですが、果たして結果は?



「世界党大会開けず ブルガリア共産党大会 「反中国」結集に失敗」
(読売新聞昭和41年11月18日夕刊2面)


「【ソフィア十七日発=AFP】ブルガリア共産党大会に出席中の各国党代表は十七日、ソ連が推進している世界共産党大会の計画に一致して賛意を表することにふたたび失敗した。
 北京の政策を公然と非難したのは、フィンランド、レバノン、ドイツ、キプロスのわずか四か国だけだった。また他の四か国は、ある党による分裂活動を遺憾だと述べたが、中国の名前をあげなかった。南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)代表のグエン・チ・ビン女史は、世界党大会計画にも、中国指導部にも言及しなかった。
 世界党大会召集は、もともとソ連が示唆したもので、今週はじめジフコフ・ブルガリア共産党第一書記があらためて提唱したが、十七日にはポルトガル、レバノン、チリ、ベルギー、南アフリカ各国共産党が会議招集に全面支持を表明した。南アフリカのエンゾロ代表は、ベトナムとアフリカ新植民地主義の企てに限られるとしても、正当化されようと述べた。」


ソ連の根回しにもかかわらず、当面は中共非難のための世界共産党大会はお流れになったようです。ソ連としても、それほど無理して実行しようとはしていないようで、自国でなくブルガリア共産党に提案させたところにもそれが現れているのだと思います。ベトナムで米帝と争っている最中に陣営内の亀裂をあまり大きく見せたくないという心理も働いているのでしょう。



「開かずの勝鬨橋 落ちぶれた東京名物 車の交通がふえて 開いても月に10回 大型船も航行せず」
(朝日新聞昭和41年11月18日朝刊16面)


「隅田川にかかる勝鬨(かちどき)橋が最近、さっぱり開閉しない。上り下りする船がめっきり滅ったのと橋の上を走る車の量がふえたためだというが、かつては日に五度も開閉し、三千トン級の軍艦までも通したというのに、いまは多いときでも月に十回ていど。ことしはついに一度も開かない月があったという。
 勝闘橋は旧東京市が七年の工期と、当時の金で四百二十万円を投入して昭和十五年に完成した。アメリカのシカゴ市にある同型の橋をマネしたものだが、当時は日華事変の最中で、市では国威発揚のため"東洋一の可動橋"と大いにPR。東京の新名物として小中学生をはじめ全国から見物客が絶えなかった。また当時は上流の永代橋との間の隅田川沿いに大手の倉庫会社がずらり軒を並ベ、船の交通も多かったため、一日に五回ずつ開閉して水上のラッシュをさばいていた。
 ところが戦後、進駐軍の命令で開閉回数を一日三回に減らされ、さらに三十六年からは午前七時の一回だけ、それも船が通るときだけ開閉することに改められた。沿岸の倉庫会社や造船会社が次々と下流に引越し、勝鬨橋付近を上り下りする大型船が減ったことや、月島、晴海地区の発展で橋の上の車の交通量が急増、日中に開閉することがむずかしくなったのが原因という。
 とくに昨年八月、約五百メートル上流に新佃大橋が完成し、同橋より上流への大型船の航行ができなくなつてからは、建前は一日一回でも、実際に開かれる回数はぐっと減った。
 開閉が必要なときは、船の所有者から前日の午後三時までに管理事務所に連絡することになっているが、いま実際に開閉を頼んでくるのは、橋の上流に本社や事業所をもつ鉱業会社と土建会社の二社だけ。
 それにつれて、東京名物としての役割も東京タワーやオリンピック競技場などにとって変られ、いまは訪れる人もほとんどいない。
 開通以来、二十六年間も勝鬨橋の世話をつづけてきたという管理責任者の都建設局技師佐藤三郎さん(五七)も「こんなに車の交通量がふえては、開く橋なんてやっかいものでしょうね」と、花形だった昔をしのびながら、時代の移りかわりに感慨深そうだ。」


戦前の建造物なので「勝鬨橋」と聞くとやけに古い感じもしますが、まだできてから26年しかたっていないんですね。約五百メートル上流の新佃大橋のせいでそれ以上船があがれないというなら、もう開ける必要もないんでしょうけれど、年に一回ぐらい特別に上げるイベントをすれば人も集まると思いますがどうでしょうか。



「一割がノイローゼの恐れ 山手地区の中学生 杉並・松渓中の研究」
(朝日新聞昭和41年11月18日朝刊16面)


「"教育ママ"や"父親不在"の家庭の多い山手地区の中学生のうち、約一割はノイローゼになりやすい兆候がある---十七日、杉並区立松渓中で開かれた同区教育相談活動研究発表会で、同中の先生がショッキングな研究結果を発表した。(中略)
 悩みの解決方法は、自分で考えぬくと答えたのが一年三六%、二年四三%、三年五六%で、全体の半数近くが親や先生に相談せす、一人でくよくよ考えていることがわかった。
 さらに親子関係では、母親から高校受験のため勉強を強制されている生徒や父親が転動したが住宅などの事情で別居したり、帰宅時間の遅い父親とは、めったに口をきくことのないサラリーマン家庭の生徒は成績こそよいが、学校では親しい友達ができない、という傾向がはっきり出た。
 こうした調査をもとに生徒一人一人を分析した結果、男子で一〇%、女子で七・三%の生徒たちは、ちょっとしたきっかけでノイローゼになる危険が多いという。」


記事では調査の詳細が分からないので、どれぐらい信憑性があるのかは判断できませんが、このような結果がでたそうです。『父と口をきかない生徒は親しい友だちができない』といった結果ならば、アンケートで調べられそうですが、『ちょっとしたきっかけでノイローゼになる危険』のパーセンテイジはどうやって計測したんでしょうか?



「タンクローリーが給油中 スタンド火の海に 目黒 民家五戸も巻きぞえ」
(毎日新聞昭和41年11月18日夕刊11面)


「十八日午後零時十八分ごろ、東京目黒区原町一四〇五、モービルガス石油スタンド、広進商事会社=H社長(二八)=で、横浜油脂運輸のタンクローリー=I運転手(二八)=がガソリンを給油中、突然ガソリンスタンドの給油口から火を吹いた。
 火はたちまちひろがり、同タンクローリー車が全焼、タンクローリー車に積んできた約六千リットルも全部燃やして同番地の寿司店経営、Kさん(三六)方の木造平屋建住宅一むね約五十二平方メートルを全焼、ガソリンスタンド裏の公衆浴場"永生湯"とガソリンスタンド向かいのタバコ店、Aさん、隣のSさん、クリーニング業、Nさん方の計四軒のカベを焼いて、午後一時過ぎ鎮火した。(中略)同スタンド従業員らは無事。
 タンクローリーから流れる約六千リットルのガソリンで付近の道路など約百平方メートルが火の海となり、スタンドに置いてあった五ガロン入りのドラムかん三個がつぎつきににぶい音を立てて破裂、炎は一時高さ十八メートルにも上がった。
 ガソリンスタンドのまわりは商店や住宅が密集した地区で、東京消防庁は化学車など約三十台を出動させるとともに、付近の住民十世帯を避難させ、ホースでスタンドのまわりに水のカベをつくって延焼を防ぎ、泡沫消火剤五十かん(一かん二十リットル入り)をそそぐなどの消火活動をしたため大事に至らなかった。
 目黒消防署などで調べているが、出火当時I運転手は給油のためホースを地下の貯蔵タンクに入れたままHさんにまかせて食事にいっていた。
 タンクローリーが給油を始めてから数分後に出火しており、このころ、そばのガソリンスタンド事務所で石油ストーブを使っていたので給油中に発生したガスに引火したのではないかとみられ、従業員らから事情を聞いている。」


大事にいたらなくてなによりでしたが、住宅地の真っ直中でタンクローリーが爆発とは恐ろしい。事務所の石油ストーブの位置と給油口の距離がよく分かりませんが、ガソリンスタンドでは冬場の暖房の扱いには十分注意してほしいものです。
| - | 23:26 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
Wikipediaの藤山氏に関する記述から抜粋

藤山氏は、彼の父の築いた藤山コンツェルンの後継者。記者会見会場のホテルニュージャパンも、1966年当時は藤山氏のグループ企業の持ち物でそこを事務所にしていたとのこと。
 自民党内の藤山派の維持や総裁選出馬費用などに私財をつぎ込み続けたが総裁・首相にはついになれなかった。仕舞いには藤山コンツェルン自体が解体されるニュージャパンも横井英樹の手へ。
 ホテルは人手にわたったものの、事務所はそのままホテルニュージャパンにあった。その事務所には、氏が収集した中国近現代史料「藤山現代中国文庫」があったというが、ご存じの通り1982年に大火災。資料は全て灰燼に帰した。火災から3年後の1985年死去。享年87。
 政治に没頭して藤山コンツェルンの没落を招いたことから、「絹のハンカチが雑巾に」「最後の井戸塀政治家」などと言われたそうな。
 「第二夫人は有名女優の細川ちか子であることが広く公にされており、間に二人の子供がいる。」ともwikipediaに記載があります。細川ちか子さんといえば、成瀬巳喜男監督の名作「晩菊」の演技が忘れられません。
| 産業ロック製作所長 | 2007/07/30 12:14 AM |

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